奈良・春日山の森を歩く
連日の雨で、春日山(かすがやま)の木々も地面も草も、みんな湿っていた。
雨が潤いをもたらして多くの生きものたちを喜ばせている。八月末に訪れた時とくらべて、
見かける動物が多い。ミーンミンミンミンミー、ミーンミンミンミンミー。いうまでもなく、これはミンミン蝉。
それから、ジュクジュクジュクホーシ。ジュクジュクジュクホーシ。
二種類の蝉たちが対位法(ポリフォニー)の音楽を奏でる。九月だというのに、
蜩(ヒグラシ)の声は聞こえない。
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春日山の木々に明るい光が
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ポリフォニー、つまりカノンやフーガのように複数のメロディーが同時にあらわれ、
からみ合う音楽である。「ポリフォニー」 と口に出していってみると、
セバスチャン・バッハの 「小フーガ」 が自然に思い出された。ラー、ミー、ドーーシ、
ラドシラソシミ、ラミシミド、、、。なるほど、そうか、ポリフォニーの原型は自然の音だったのか、
と気づく。
歩いている時は細かい音に気づきにくいものだけれど、立ち止まってじっと耳を澄ますと、
さまざまな音が聞こえ始める。時おり響く鳥たちの鋭い声。かすかに聞こえてくる谷川の流れ。
はらはらと散る樹木の葉の乾いた音。木の実が落下する強い音。密かに飛ぶ昆虫の羽音。
こうした音たちが見事に交響する。
それだけではない。音はたてないものの、湿ったところを沢蟹が這っている。
はっと気づくと縞蛇が蛇行するのに出会うこともある。
子どものころ山道でよく出会ったハンミョウ(ミチシルベ)が私の足音を聞いて飛び立つ。そうかと思えば、
コガネムシが地面の上をゆっくりと歩いていく。雨が生きものたちを歓喜させたのだ。
ホオの葉
奈良市街の東に位置している高畑町から、柳生方面を目指す春日山周遊の道。
歩行者以外は通行禁止と書いてあるが、車両の走れる幅があるのは、
山火事にそなえて消防車が通れるようにしてあるかららしい。山道としては、とても歩きやすい。
ベテランの登山者は山道の実感がないというかもしれないが、
ゆっくり愉しみながら上って行きたいと願う 「ゆるやか派」 には、これがいい。
舗装を施していない道は脚にやさしい。少しも脚の疲れを感じない。もう少しごつごつした道を望む人は、
隣の滝坂の道を選べばいいだろう。こちらは勾配もきつく、
足元も不安定だから 「かろやか派」 にぴったりだ。
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ホオノキの枯葉も美しい
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「春日山原生林」 は特別天然記念物に指定され、森の中は立ち入り禁止になっている。
そのため、並みの里山では見られないような大木が当たり前のように次々と現れる。
一人では抱えきれない幹をそなえたものが多い。
まだ初秋であるにも関わらず、木の葉が道に散り敷いている。見事に大きなホオノキの葉。
クヌギの葉も、ふだん見るものより一回り大きいように思える。
そのほか無数の葉が無限にさまざまな模様を織りあげている。葉に混じって、
時おり木の実も落ちている。あちこちに見つかるのはカヤの実だ。
道は、勾配を緩やかにするため、しばしばうねる。山の方に深く入ったところは谷にあたるから、
かならず水がしたたり落ちているのに出会う。触ってみると、ひんやりと気持ちがよい。
この辺りは人の手のはいらない森林だから、日の光が下まで届かないところが多い。
たとえ届いても木漏れ日で、それが落ち葉の散り敷く道の上に、ぽっかりとスポットをあてている。
帽子が要らない。名を知らない鳥が鋭い声をあげて、飛び去っていった。
ゆるやかな坂道
先月は上って行く途中で、朝早くから上った人たちが降りてくるのにたびたび出会ったが、
今日は人影がまったく見えない。大木の切り株に腰を下ろして休んでいると、あとから上ってきた青年が、
こちらを見ないようにして通り過ぎていった。「こんにちは」 の一言がほしいところだけれど、
青年たちにそれを要求するのは、今では難しくなったのだろうか。
山道の 「こんにちは」 という一言が私は好きだ。
やがて私は立ち上がって歩き始める。坂はゆるやかで、決して苦しい道ではない。
ゆっくりと上ろうとすれば、いくらでもゆっくりと歩くことができる。ときおり吹く風がここちよい。
森の中だから決して強くはならない。
ふだんの生活で空気の存在をありがたいと感じることはそう多くないはずだ。
この風は本当にすがすがしく嬉しい。九月の初めだから、まだ気温は高いのだが。
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ひそやかな森の中の植物
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森の中には草が少ない。下界では道端に多くの草を見るけれど、ここではそうは行かない。
やや明るいところには草が生えているところもあるし、シダ類などはたくさん生えているが、
下界のような草は多くない。その中でレモンエゴマを見かけることがある。このシソ科の植物は、
奈良公園の周辺でもよく見かけるもので、葉をちぎって香りをかぐとレモンのような香りがあることから、
こんな名前で呼ばれるという。けれど葉を強くこすって香りをかぐと、むしろシソのようなきつい匂いがある。
ハーブの葉の香りをかぐには葉をちぎり取る必要はなく、ただ葉を指でこするだけでいいことを
神戸のハーブ園で学んだばかりだ。
妙見宮の鬼子母神
くねる道が山側に深く入ったところに、「妙見宮」 と名づけられた日蓮宗の修行所がある。
石段が奥へ続いていて、どんなところか行ってみたいという気持ちにさせられる。
それにしても、こんな山奥に建物を建てる労力は並大抵ではない。よほどの信念の産物だろうと
密かに舌を巻き、硬い石を踏みしめて登っていく。上には権威の象徴のような建物はなく、
簡素な建物がいくつも散在しているばかりだ。正面に事務所らしい建物。人影はないが、
中に人がいるのかもしれない。左手には見上げるばかりの急な石段。これはすごい。
途中にまったく踊り場がないのだ。
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気のスポット、妙見宮
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70〜80段くらいあるだろうか。石段を登りきったところで、ふっと息をゆるめる。
見下ろすと、さっきの建物が小さく見える。眩暈を起こしそうだ。その先に鬼子母神の文字。
寺院に神殿があるというのも面白い。何でもありなわけだ。いや、鬼子母神は仏教の神様だったかな。
仏教になぜ神様がいるのかな、などと考える。拝殿の前に 「喜捨」 の二文字が素朴な字で刻まれている。
「喜捨」 という言葉はいいなあ。私のような者には、いつも喜捨の心が必要だなあ、と思う。
そして、こんな高いところに建物を建てたことだけでも敬意を払うに値すると考えて、硬貨を一枚投げる。
ここを訪れた人は手を合わせるだけなのか、それとも柏手をうつのか、と考えてもよく分からない。
どの方向を見ても、周りは樹木ばかり。一時はこの森を多くの信徒が訪れたという。
今では春日の森を散策する人たちが一息つく場所になっているらしい。ところで、
昔から私には信仰心がなくて、「神仏」 のおかれているところを訪ねても、手を合わせない。
でも、神社の鎮守の森や山の寺院は好きで、何か気が感応するのを肌に感ずるところがある。
ここも素晴らしい気のスポットだと感じ入る。市街地から小一時間でいける場所は貴重だ。
オーラの海を泳ぐ
気といえば、オーラのことも思う。オーラに興味を持ってから、もう何年になるだろうか。若い頃には、
オーラに関心があるなどと発言すると、奇妙なオタクと思われただろう。でも今は、
わりあい素直に受け入れられるのではないだろうか。
私にはオーラの細かい構造までは今のところ見えないけれど、
人のからだの外側をうっすらと取り巻くオーラは見える。
いつか女性合唱の発表会を聞きに出かけて熱心に聞いているときに、はっと気づいたのが、
歌っている女性たちの頭の上にオーラがあることだった。あっ、これがオーラなのか、
と気づいてから後は、電車の車両に座っている時に、
対面して座っている人のオーラを見るのが楽しみになった。でも、それからもう何年もたつが、
私のオーラ視に大した進歩はなかった。いつも同じような見え方でしかないし、
人以外のオーラがないかと気をつけてみても、うまく見えないままだった。
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アニメに出てきそう
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いま私の視野には、多くの大木たちが入ってくる。木のオーラは見えないものだろうか。
そう思って目を凝らす。「凝らす」 というのは少し違うかもしれない。
木を見るために目を凝らしてもオーラは見えない。人のオーラでもそうだけれど、
人を見るようなつもりで目を凝らしてもだめだ。むしろ無限の遠方を見るようなつもりで人を見ると、
外形の外側にオーラが見え始める。だから 「凝らす」 というよりも、
ぼやっと見るといった方が正しいかもしれない。
すると確かに木のオーラが見える。これはすごいことになった、
と思いながら周囲の木を確かめるように眺めると、この木もあの木も、
すべてオーラを発しているではないか。嬉しさがからだの中からこみ上げる。
森の中はオーラの海なんだ。そう思うと、周りの景色がいとおしくなってくる。
ルドルフ・シュタイナーが 「アストラル体」 と呼んでいるのがオーラだろう。
私自身も誰かに見られたらオーラを発しているし、どんな人にもオーラが見えるのは間違いない。
だから私もオーラの海の一部だ。
滝坂の道へ
ゆるやかな坂道が続く。遠くから人の話し声が聞こえた。あれは滝坂の道を歩いているのだろう。
そう思って耳をすませると、どうやら何人かの人が道を下ってくる気配である。
南側の斜面を見下ろすと、滝坂の道が木々のあいだからかすかに見え、そこを下ってくる数人の集団がある。
あの木は何百年くらい経っているというような話をしているらしい。この辺りは特に大木が多い。
たいていの大木はスギなど針葉樹だが、カシなど広葉樹の大木もある。見上げてみても、
大方は幹の上端がどこにあるのか分からない。天にものぼる風情といえばいいだろうか。
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ぱっと明るくなった滝坂の道
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やがて道は滝坂の道と合流し、首切り地蔵の近くの園亭に出会う。ノートが吊り下げてあって、
通りがかった人たちが自由に書き込めるようにしてある。広げてみると、時々書き込んでいく人のあることが、
日付からわかる。遠くから訪れた人も多いようだ。私もひとこと書き残して行こう。
「歓喜と感謝」。中村天風の書物に出て来た言葉がぴったりじゃないか。
その向こうに首切り地蔵がある。ところが、いつも見かけるトレードマークの赤い前掛けがない。
その代わりに白い紙が首のところに貼り付けてある。近寄ってみると、「前掛け工事中」 とある。なるほど。
こういう山の中でも世話をしている人がいるわけだ。ご苦労さま。
首が切れているのは荒木又衛門が試し切りをしたからだというが、もちろんこれは作り話。
でも、そんな具合に切れているのが面白い。柳生に 「一刀石」 というのがあって、
巨大な岩が真ん中でまっぷたつになっている。あれも、なぜうまく二つに分かれているのか謎だ。
自然に二つに分かれたとも考えにくいから、誰かが工夫したに違いないが、そうでもないのだろうか。
地獄谷の女性
地獄谷の石仏群というのがある。一度もそれを見たことがなかったから、
今日はそこへ行って見よう。そう思って地獄谷への山道をとる。周遊道とはうって代わって急傾斜で、
足元が悪い。ふと足元の土に気をつけてみると、地層が露出していて、地面に縞模様がある。
この辺りは海抜が数百メートルあるはずだが、そこに地層があるとすれば、昔、
海の底であった証拠になる。いま私が歩いている大和高原は、
日本列島が東と南からプレート運動の圧力を受けて盛り上がって出来た地形だというから、
この地層が生まれたのは、もう数億年も昔のことかもしれない。地質学の知識があればもっと面白いのに、
と考えてみる。
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奥山の大木は力強い
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険しい山道をぬけて、春日奥山ドライブウェーに出た。
舗装道路のすぐ向かい側には地獄谷へのみちが続いている。
そのそばに営林署のパジェロ・ミニが止まっている。地獄谷への道に入ろうとすると、紐がかけてあって、
道がくずれて通行できません、というようなことが書いてある。
峠の茶屋まで行ってお茶をいっぱい飲みたいのだけれど、ドライブウェーは歩行者禁止のはずだ、
困ったな、これではいったん首切り地蔵まで戻らないといけないと思って、クルマに近づく。
中をのぞくと、驚いたことに中に乗っているのは若い女性だ。
最近は営林署で女性が働くようになったのかと思いながら、彼女がドアを開けてくれるのを待つ。
峠の茶屋まで行きたいが、ドライブウェーを通ってもいいか、
と小柄な彼女に尋ねると 「基本的にはだめですね」 という。うん、お役所らしい答え方だ。
基本的にだめ、ねえ。彼女はアイスクリームを食べていたらしい。ここで通行人を監視しているのか、
と尋ねると、「いや、そういうわけではなくて、少し遅い昼食をとっていたもので」 と言い訳するように、
ふたたび氷菓を取り上げて食べ始めた。邪魔をしたとわびて、引き返すことにする。
少しの距離だから、だまって自動車専用道を歩いていけば、彼女は見逃したのかもしれない、
などと考えながら、でも、ああいう若い女性が営林署で仕事をして、
四輪駆動車を乗り回しているのは頼もしいな、などと思ってみる。
元の道を戻って、峠の茶屋に向かう。大きなヒノキが軒並み切り出されている。
倒されたままのものもある。年輪を読み取ると、ほぼ50年だ。この辺りは国有林のはずで、
簡単に切り出したりできないはずだが、と思っていると、その先に案内板がある。
「複層林業」 と書かれている。25年の周期で半分ずつ木を切り出して行う林業の方法が説明してあって、
このやり方だと、森林が裸にならずに済む。新しい方法の実験をここで行っているという。(続く)