操法する勇気
整体を受けにやって来る人たちの体は千差万別。それをどう捌けばいいか。難しい問題ですが、勇気をもって取り組むにはどうすればいいのか。
シュタイナーの意見
時々とりあげているオーストリア出身の思想家・人智学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)に『医学は霊学から何を得ることができるか』という薄い本があります。ドイツ語のシュタイナー全集には今350冊あまりの膨大な本が含まれているそうですが、自分で書き下ろした本は少なく、たいていは講演で、この本も晩年にオランダで行なった講演を筆記したものです。
例によってこの本も、初めて読む人に不思議な感じを与えるでしょう。いったい著者は何が言いたいのか普通の感覚では見当がつかないかもしれません。ですから他の本でシュタイナーのスタイルになじんでから読んだ方がいい本ということになるでしょう。初めこの本を読んだ時には、正直いって何の感銘もありませんでした。今回読み直してみて、いくつも重要なことが言われていることに気づきました。例えば彼は次のように言っています。
── すべての研究対象は活気に満ち、動いていなければならないのであり、同時にそれは冷静沈着に観察されなければなりません。というのも、そうすることによってはじめて生命と現実に近づくことができるからです。そして、もうひとつ大事なのは治療しようとする勇気です。治療しようとする勇気は、治療法を熟知していることと同じくらい大切です。こう言ったからといって、それは漠然とした空想的な楽観論ではなく、むしろ、このような勇気から私たちはひとつの内的な確信を得るのです。つまり、いかなる症例に出会っても、「私はこの病気について深く知っている、治療の努力をしてみよう」という気持ちを持つことができるようになるのです。すべてはこの内的な確信から始まるのです。
要点をまとめてみましょう。
(1) 死体解剖から得られた結論は役に立たない、動的な認識をすること、 (2) 冷静に沈着な観察をすることが必要、 (3) 取り組もうとする勇気が大切、 (4) 取り組み方を熟知していること、 (5) 深く知っているという内的な確信を持つこと、 (6) 確信からすべては始まる。
医学者を対象とした話しなので、整体に当てはまるかどうか疑問もありますが、私はここに書かれていることがよく分かります。前半に書かれていることは別として、後半の内容を整体に当てはめて言いなおしてみましょう。
ひとりの人と取り組むために、まずその人を眺めて、「状態は何か非常に複雑そうに見える。今すぐには、どこがどうなっているのか見当もつかない。でもこの状態について自分は何だか深く知っている気がする。努力してみよう」という気持ちになれるかどうかが大切だ、ということです。逆に、初めから「この人の身体は自分には手に負えないのではないか」と心の奥深くで思ってしまうと、うまく行かないということです。これは経験として、よく分かります。
10年来の肩痛
実例を次にとり上げてみましょう。先日こられた人の身体はまことに複雑でした。仰向けになってもらい、全体がどうなっているか、まずざっと眺めてから操法を始めるのですけれど、Nさんの身体は、何がどうなっているのかよく分からないものの、変だということは分かる。そんな状況でした。ですから「確かに歪んでますね」と言って操法にとりかかったのでした。でも、不思議にも難しいという感じがしない。何とかなりそうだと思っていました。まだ身体に触れてもいないのに、どうしてそんなことが分かるのか、と尋ねられても答えられませんが。
その複雑さは、こんな具合です。操法の見学に来ていたMさんは、たびたび私の操法を見学してなじんでいるはずなのに、(私が)何をしてるのかよく分かりませんでした、と後で打ち明けたほどです。それほどNさんのからだの状況は複雑だったから、私の動きも複雑だったに違いない。
Nさんは子どもの頃から野球をやってきて、肩を傷めたといわれる。もう10年来、肩が痛いのだそうです。それだけでなく、身体全体に歪んでいる感覚があるという。Nさんのあちこちを触っている内に、どうもこれは変だな、と思いました。「右投げ右打ち」ですか、と尋ねてみると「右投げ左打ち」なんです、という返事。なぜと問い返してみると、右の股関節を傷めたことがあって、右打ちができなくなった、それ以来、右投げ左打ちでやって来たそうです。
なるほど、やっぱり。歪み方が尋常ではありません。あちこちに普通ではみられないような歪み方があって、これは変だ、と思ったわけです。なぜ「右投げ右打ちですか」という質問をしたのか、いま的確にこういう理由からだと指摘はできません。でも、歪み方が変だという感覚があった。途中経過を書くと、複雑怪奇なことになるので、省略しますが、最終的にNさんの肩の痛みは消えました。10年ぶりだそうです。
後から振り返ってみると、初めに「何とかなりそうだ」という感じがあったということが大切な気がします。なぜそういう感覚があったのかは自分でも分かりません。敢えていえば、外側から、歪みがはっきり目に見えるような人ほど歪みがとれやすい、という経験則みたいなものがある。逆に、どこにも外側の歪みが見えないのに不調があるような人は、かえって難しいことが多い、と言えるかもしれませんが、これは後講釈です。
努力をしてみよう
いずれにせよ、こういう感覚は人に伝えることができません。施術者が経験の積み重ねから自分で身につける以外にないように思います。しかし、シュタイナーはいかなる症例に出会っても、「私はこの病気について深く知っている、治療の努力をしてみよう」という気持ちを持つ、と書いていますね。そういう境地に達するには、どうすればいいか、私にもまだ分かりませんが、探求する価値は大いにある、と思えます。
これについてシュタイナーは、続きの部分でこう言っています。
── このような内的確信を得るには、人間の本質と自然をその動的な状態において把握しようとする勇気を持つことがなによりも必要です。
さきほどのシュタイナーの要点に戻ると、これで再び (1) に戻ることになります。動的、つまりダイナミックな認識をすることが大切だ、というところに戻りますね。この円環を繰り返すことが大切だと言っているんでしょう。
整体屋さんは、毎日その努力をしているはずです。人の身体を動かしたり変化させたりすることで、何が変わるかを毎日見続けています。それによって毎日少しずつ何かが分かってくる。でも私には、まだまだ目標が雲の彼方にある気がします。やればやるほど難しくなる。登山で言えば、登れば登るほど道が険しくなる。もう降りようか、と思うこともあります。それでも勇気を持って進む以外にありません。
(2010. 09 初出)