森の楽しみ
奈良盆地に森が残っているのは鎮守の森だけだと思っていました。でも、そうではなかった。人の手で苗木を植え、30年を経て豊かな森になっているところがありました。こんなに夢のある仕事をした人たちがいたなんて今の今まで知らなかったのは不覚です。
美しい森があった
まずは写真をごらんください。ちょうど紅葉の時期で、広葉樹が深く色づき、鮮やかな風景を生んでいます。イングランドを思わせる森が見渡すかぎり広がっていて、真昼間なのに誰もいない。しかも森に入るのは、あなたの自由です。
『川西町史』という分厚い資料を調べてみますと、この森は1974年(昭和49年)ごろに誕生していることが分かりました。それまでどうなっていたのかと、大和郡山市の図書館で古い地図(1909年、明治42年)を探しだしてみますと、この場所は見渡すかぎり水田だった。『町史』には、そこに数十種類の樹木を植え込んだとあります。
私は樹木の名前に詳しくはないので、木立を見ただけで名前が分かるというわけには行きません。樹木の植物図鑑を持って、葉っぱや木の幹をていねいに見ていかないと、何の木なのかよく分かりません。でもこの森が、日本の各地に普通に見られる里山と違ったものであることは一目見て分かります。
私は海外に行ったことがほとんどないのですけれど、数年前に一度だけイギリスを訪ねています。この時、ロンドンでおとずれた公園や、田舎の森の中を歩いたフットパス(散歩道)を思い浮かべました。イギリスの森の多くは長い年月をかけて人の手で作られたものだそうです。
木を植える男
『木を植える男、ポール・コールマン』という本があります。お読みになった方もいらっしゃるでしょう。この本に登場するポールという男(実在)は、一人で木を植えて回っていますが、ここの森は一人の男の仕事ではない。恐らく複数の男たちが企画を立てたはずです。
男たち(女性だったかもしれません)が一生懸命に図面を引いて、小さな苗木を植え込んでいった様子が目に浮かぶようです。その時は、まだひょろひょろの苗木で、とても森と呼べるものではなかったはずです。空き地に木が植えてあるなあ、という程度のことだったに違いない。でも男たちの頭の中には、自分たちの植え込んだ樹木がやがて大きく育って、人々を愉しませる森になった姿がはっきりとあった。
いま私はここを歩きながら、森を作ろうと思い立った男たちの想像力に感嘆します。人は、このような未来のために仕事ができれば、それが最高ではないでしょうか。30年後に自分たちの植え込んだ樹木が大きな森に育って、人びとや動物たちを愉しませる。すてきな仕事です。
牧羊神の森
話は変わりますが、私自身の子どものころの話をお聞きください。あれは10歳くらいの時でした。神戸の灘区に住んでいた私は、近くの公園の片隅に積んである土木資材の山で、よく遊んだものです。土管だとか、コンクリートのブロックだとかがたくさんおいてありました。
ある日のこと、そこにリンゴの木箱らしいものが捨ててあって、その中にSPレコードがたくさん詰まっていました。今ではSPレコードといっても、ぴんとこない人もいるでしょうね。CDもLPレコードもない時代。鉄の針で聞く1分間78回転のSPレコードというものがありました。片面がせいぜい3分ほど。今では考えられない素朴なものでした。音も決していいとはいえない。シャーという針の音の中から、かろうじて音楽が聞こえてくるといったものでした。
このSPレコードを見つけた私は、弟に木箱の反対側を担がせて、二人で家まで運びました。そうして、SPも掛けられるようになっていたLPプレーヤーで掛けて見たんです。いくつかその時に聞いた曲がありましたけれど、今でも鮮明に覚えているのはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」という曲。どこのオーケストラが演奏したものであったかは、はっきりしません。でも思い返してみると、どうもイギリスのオーケストラだったような気がします。ひどい雑音のあいだから聞こえてくるオーケストラの弦の音が、すごく魅惑的な響きに思えました。いまでも、あれより魅力のある弦の音を聞いたことがない。
川あいの森
もののはずみで、たまたまこの森を見つけることになったのは幸運でした。妻と二人で歩きながら私が頭の中にまっさきに思い描いたのは、この「牧神」の音楽でした。もうすこし経つと、きっとこの森に牧羊神が住むようになる。それが今は人っ子ひとりいない昼下がりの森。こんな近くに素晴らしい森があるなんて、3日経った今もまだ信じられない思いが続いています。
この森がどこにあるかをお話しておかなければいけません。でも大きな声でいうと、たくさんの人が出かけるかもしれません。それでは牧羊神を探す楽しみがなくなるでしょう。ですから小さな声で言いますね。大和郡山市の南端です。大和川と佐保川の間にあるので、「山あいの村」などという言い方に倣って、「川あいの森」と名づけたい気がします。
( 2006. 11 初出 )