疲れを癒やす

疲れたとき、あなたはどうしますか。自分のからだと心をいやす方法は人によってさまざまです。 音楽をきく人、シャワーをあびる人、あるいはお茶にする人。でも、せっかくなら一味ちがう提案をしてみたい。 大きな樹を探して、その下で百億光年のかなたをイメージして瞑想するなり、腹式呼吸にとり組むなり、 気持ちのいいことをしてみましょう。

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佐保川の河畔にたつ
栴檀の大木

樹のもとで

かつて大和郡山に朱鯨亭があったころ、教室に顔を見せられていた男性が、 右の写真の栴檀の樹から遠くないところに住んでいらっしゃいました。その方に栴檀のはなしをしたところ、 「樹の下に祠(ほこら)があるでしょう。あそこは野の神様として信仰されていたところでね、 毎年 ”のがみさん” といってお祭りをしていましたよ」 と教えてくださいました。今ではこの祠を世話している人がいる様子はありません。栴檀のすぐそばに小さな木が一本生えているばかりです。 でも昔はまわりに藪があったらしい。

ここは奈良盆地をつらぬく佐保川の堤ですので、冬場は吹きっさらしで風がきつく寒い。私も厳しい季節にここへ行くことはあまりありません。でも温かくなると、この樹の下へよく行きます。 何か心のふさがる時や疲れた時は、樹の下に座ったり、樹の前に立ったりして、栴檀の広やかな気をいただきに行きたいと思う。 菩提樹の下に座るお釈迦さまのようには行かないかもしれませんが、樹の下で座ってみると、 宇宙の気に抱かれている感じがして、自分の身体をとても安らかにすることができるからです。

ここから佐保川の堤防をずっと見渡せます。この樹に匹敵するような大木はほかに見当たりません。 下流へ行けば右岸におおきな榎(えのき)がありますが、そこまで600メートルほど離れています。 あいだには潅木ひとつ生えていません。奈良盆地の川はすべて大和川に流れ込みますが、 その多くは堤防上に樹がなくて、わびしい。

昔はどうだったんでしょうか。実は栴檀と榎の中間地点に、銀杏(いちょう)の大木が1~2年前までありました。郡界橋という橋のたもとに、お地蔵様をまもる守り神のように銀杏の大木があったのですが、 橋を架け替える時に、工事のじゃまだというのでしょう、こともなげに切り倒してしまった。 今は影も形もありません。この男性は「ばちがあたりますよ 」とおっしゃっていました。 かつてはきっと銀杏の木陰で通行人が一休みしたり、 子どもたちが集まって遊んだりという空間だったにちがいありません。

ランドマークと地理感覚

巨木や鎮守の森、ほこら、石仏、道標など、かつてはあちこちにランドマークがありました。こうしたものが人びとの地理感覚や宇宙感覚を育んでいたのではなかったでしょうか。もう一度わたしたちは、このような感覚を取り戻す必要がある。そう私は思っています。大木の下で宇宙感覚を育てよう ―― 。

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神戸・布引ハーブ園の
西洋菩提樹

こういうことをメルマガに書いたところ、「宇宙感覚って何ですか」というご質問をいただきました。 正面からつっこまれると答えるのは難しい。でもやってみましょう。

私は東京へいく機会があると、いつも地図をポケットに入れています。そうしないと、 どこがどこだかよく分からなくなるからです。関西の街ですと、ある程度は知っていることもありますが、 おおむね東西と南北に街路が規則正しく並んでいることが多く、地図がなくても困りません。 つまり関西の街について、私は「地理感覚」をもっていることになります。特に京都は分かりやすいですね。 街路が碁盤の目になっているだけでなく、三方に山があって、それを目印にすればまず迷うことはありません。 神戸だと北に山、南に海がありますので、ここでも迷うことはありません。

ところがそんなところでも、慣れない百貨店のなかに入ると、どっちが北だったか分からなくなることがあります。 外に出るとすぐわかるのですけれど、店内をうろうろしているうちに、どっちが南の出口だったか、 などということが分からなくなる。こういう時に、いつも「地理感覚」って何なのかなと思います (男と女で地理感覚が違うということを書いた本がありますけれど、それは読んでいないので今は触れません)。 道を歩いている時にも、きっと無意識ながら自分は今どっちに向かっているかを常に感じながら歩いている。 そうでない人もいるんでしょうが、私の場合はそうだと思います。

「宇宙感覚」という言葉は、このような「地理感覚」をぐっと拡大したもの、という意味で使ったつもりです。 例えば、広い空や、大きな樹木や、高い木々が茂る森、緑の山々、といったものがある場所ですと、 空のかなた、こずえの向かう方向、森が覆っている土地、木々の根が生えている方向、山が続いて行く方向、 といった感覚をどこかで感じているのではないかと思います。ところが、 周囲がすべて人工物で囲まれているような場所へいくと、こういう感覚がなくなってしまう。 百貨店の店内などという場所は、その典型でしょう。 自分の位置がどこにあるかを見失ってしまうのではないでしょうか。

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奈良・川合の森のケヤキ

そうして現代の都市では、このようなランドマークの代わりを人工物のビルが果たしています。 ところがセメントの塊である巨大ビルや地下街の中では、 そのようなランドマークの感覚がないまま生活しているのではないだろうか。地下街のレストランに入ったときに、突然、どちらが北ですか、と尋ねられて的確に答えられるかどうか。すぐに答えられなかったら、 地理感覚が失われたまま、そこにいたことになるでしょう。

失われた宇宙感覚をとりもどす

ところで、地理感覚というのと宇宙感覚というのとでは、随分ちがいます。宇宙感覚という言葉の中には、太陽がいまどこにあって、月がどこにあって、星座がどこにあるということが分かるかどうか、ということも含まれているでしょう。でも都市では星座の位置などもう無理ですね。ほとんど見えないし、 見ている人は少ないですからね。子どもたちに聞いてご覧なさい。太陽はどっちから出てくる?って。すぐに「あっち」と的確に答えられるだろうか。太陽の動きをロクに見ていない子が多いのではないだろうか。

天体の位置というだけでなく、もう一つ、頭上高くから何かのエネルギーが来ているという感覚をもっているかどうか。朝、出かける時の一瞬でいいんですけれど、目を閉じて太陽に顔を向けてみる。日の光をたっぷりと全身に受けて、しばらく立っていると、何ともいえず気持ちがいい。 これはエネルギーが全身に注がれるからというだけでなくて、いま自分が宇宙の一点にいるという感覚を確認できるからではないだろうか。私はそんなことを感じます。といっても、普段の生活でそんなことをしている人はめったに見かけません。道端にたって、ちょっと日の光を受けてみる。ほんの1分間でもいいんです。これが大変に気持ちがいい。 自分の宇宙感覚を再確認するひとときです。

これで私のいう 「宇宙感覚」 がお分かりになりましたか。今日でも明日でも朝の太陽をあびて1分間だけ立ち続けてみてください。寝る前に外に出て、 月や星を見上げるのもいいでしょうね。月の光をあびて立ち続ける時の感覚は、太陽に向かう感覚とは 別ものです。

種明かしを一つ。「宇宙感覚」に近い言葉を初めて使ったのはおそらく宮澤賢治でしょう。『農民芸術概論綱要』 の中に「宇宙感情」という言葉が出てきます。