憧れのかたち

「憧れ」という言葉は「あ こがれ」だそうです。「あ」は、「こ」や「そ」と比べて遠くのものという意味ですから、「あこがれ」は、遠くを思い焦がれることでしょう。

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モモイロタンポポ
(京都府立植物園)

花は憧れの具現

ちかごろ、このHPで使う写真は、ほとんどが花になっています。最近のモモイロタンポポには、ご感想をいただきました(「どんな道がよい?」、「ムドラー(印)」の項目にも写真があります)。なぜ花ばかりなのか。

理由の一つはシュタイナーの言葉に触発されたことです。ドイツの人智学者ルドルフ・シュタイナー(1861~1925)の作品は、多くが講演の筆記で、詩的な文章とはいえません。ところが生き生きとした詩のように感じられるところが多々ふくまれています(ただ、決して分かりやすい文章ではないので、彼の作品を読むようにお薦めするのがいいかどうか)。 

―― 精神の目をもって花に向かい合うと、かすかな望みを抱くときの私たちの魂のように感じられます。一度、春の花を見てください。春の花は根本的に、願望の息吹です。春の花は憧れの具現したものです。(シュタイナー『身体と心が求める栄養学』)

「春の花は憧れの具現したものです」というくだりを読むと、たとえばモモイロタンポポ(クレピス)の花を見て、ほんとにそうだ、と私は思ってしまいます。モモイロタンポポは南イタリアあたりの原産だそうですが、そんな珍しいものでなくても、春一番に咲くルリクワガタ(オオイヌノフグリ)でもいいです。あれは憧れの具現そのものではないか、と思ってしまいます。

―― 私たちが繊細な魂の感覚を十分に持っていれば、私たちの周囲の花の世界から、何かすばらしいものが注ぎ出ているのが分かります。(同書)

私も「何かすばらしいものが注ぎ出ている」と思います。ここでいう「すばらしいもの」とは何なのでしょうか。

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サカキの花(宇治市植物公園)

人の願望の息吹

近代の科学技術と、それが基にしている発想法では、花は花以外のなにものでもなく、なぜそういうものがあるかは説明しません。現代社会を成り立たせている考え方では、そういう説明など決してできないといった方がいいでしょう。せいぜい、花は植物の生殖器官であるという、同語反復のような当たり前のことをいう程度です。

同じことが人間についても言えます。なぜ人間は生きているのか、と問われた時に、この発想では答えようがありません。でも現実に人は生きているし、花は咲いている。

―― 私たちは春に、スミレやスノーフレークやスズラン、あるいは黄色い花の咲く多くの植物を見ます。私たちは、それらに感動します。これら、春に花の咲く植物は、「ああ人間よ、君はなんと純粋無垢に、望みを精神的なものに向けることができるのか」と、私たちに語ろうとしているようです。(同書)

魂の奥底に

山道で一輪の小さなスミレを見つけたとき、あなたは立ち止まって「ああスミレだ」と心の中でつぶやきます。そのとき、あなたの魂の中になにが生じているかとしっかり反省してみることなどありません。でも、いま目を閉じて山道や道端で見つけたスミレを思い浮かべて、そのとき自分の魂に何が浮かんでいるかを感じてみましょう。

私はシュタイナーがいうように、魂の奥底に、望みや憧れに似た感覚があることを発見するのではないかと思います。

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スミレ(宇治市太陽が丘

人が生きていても、花が咲いていても、その内に望みや憧れの感覚があるのではないでしょうか。それはいつも意識されないのですけれど、憧れの感覚があって人が生かされているのかもしれません。独房に長いあいだ閉じ込められた人が、窓の外に咲いている花を描き続けて生きる望みを得たという話をどこかで読んだことがありました。

上に挙げたシュタイナーの『身体と心が求める栄養学』は、シュタイナーがまとめた本ではなく、訳者が色々な講演などからまとめたものです。彼の本の中では比較的わかりやすいものだと感じます(風濤社、2005)。でも初めて読むと、こんなものは以前に読んだことがない、これはいったい何なんだろう、という感じを受ける人が多いかもしれません。あまりに発想が浮世離れしているように見えますから。

ところがその後で、花は憧れの具現という言葉を思い起こし、シュタイナーのいうとおりだ、花には遠くを思い焦がれている風情がある、と思い直してみることになるでしょう。

( 2009. 06 初出 )