朝歩きの勧め
朝早く起きだして歩くと、心にもからだにも大きな恵みがやってきます。朝つゆにぬれた草の葉をじっくり見つめながら、ゆっくりと歩いてみませんか。
散歩、ゆっくりでこそ
5時ごろ起きて近くの佐保川まで歩きに出かけることがよくあります。けさは中年の夫婦が朝の光をあびながら並んで歩いているのに出会いました。ところが脚がとても速い。わき目もふらず、ただひたすら歩いている感じです。夫婦二人して手の振り方まで同期している。散歩の時に速く歩く人を見かけると、これはどうしたことか、なぜこんなに速く歩くのか、といつも考えてしまいます。
周りをゆっくり楽しみながら歩いている人がいれば、たいていは犬を連れた人ですね。犬はゆったりと楽しんで歩いているんです。でも人はせかせかと歩いている。ゆっくり愉しんでいる犬を人がひっぱっていたりします。なぜ、そんなに急がなければならないのでしょうか。せかせかと歩くと、歩くことも労働の一部にしてしまうことになりませんか。歩くことがストレスを作り出しかねない。今日は3000歩しか歩かなかった、今日は雨だからとほとんど歩かなかった、などということがストレスの原因になってしまったりする。歩くことで緊張状態を作っているように思います。ゆるむために歩くのではなくて。
歩くのは健康によい、という考えにせかされているんでしょうね。でも、速く歩くのが健康にいい、なんてだれが言い出したのだろうか。速く歩くと、ほんとうに健康のためになるのだろうか。あやしい考えだ、と思いませんか。健康のために歩く、などと考えると、たとえからだによいとしても、心にさっぱり響かないことになってしまいませんか。速く歩いている人たちは、朝つゆにぬれた草の葉に無数の水滴が光っているのをじっと見つめただろうか。池の魚が人影に気づいて、さっと水にもぐるのを見ただろうか。畑のきわに自生しているハッカの香りをかいだだろうか。そんなふうに問うて見ましょう。
万歩計をつけて今日は一万歩を達成しようなどと考えるのではなく、何かの目的をなしとげるために歩くのではなく、何かを目指して歩くのでもなく、私はただ楽しいから歩きたい。立ち止まって、池のかたわらにいるコサギが首をゆすりながらゆっくりと歩くのを見つめる。すべてを忘れる楽しいひとときです。
エネルギーをもらう
歩くことで、周りのすべてからエネルギーを受け取ることができます。耕していない畑の畝に寝転んでみたら、頭のほぼ真上に下弦の月が光っていました。すぐそばに柔らかな雲が広がっています。雲が今朝はたとえようもないほど美しく感じられます。まだ空が涼しくて雲があるけれど、もうしばらくすると消えてしまう。ほんのひとときだけそこにあるものの美しさ。半月と雲が素晴らしい組み合わせになっていました。
どこか気に入ったところで立ち止まって、大きく息を吐いてみましょう。それから大きく吸い込んでみる。吸い込むときは、宇宙のエネルギーをからだ全体に受ける気持ちでいます。吐くときは、からだの中の悪いものをすべて吐き出す気持ちでやりましょう。そうそう。それでもう気功になっています。難しい形をおぼえることなど少しもいらない。からだが朝の気を吸い込んだら、そしてからだ中の悪いものを吐き出したら、それでりっぱな気功です。
歩きながら・・・
話が急に変わるようですが、ウツ症状の人が多いですね。人口の5%はウツだという。ウツの根源が何なのか、専門家にはそれなりの意見があるのでしょう。でも、ウツがやってくるのは、自分の周りにあふれる驚異に気づかないことではないかと私は思っています。宇宙にあふれかえるエネルギーを受け取ることは、どこでも可能なのではないだろうか。独房のまどからそれを受け取った人さえいるのですから。
歩きながらの気功をしてみましょう。ゆっくり歩きながら、朝の気を吸い込む。そしてからだ中の悪いものを吐き出す。じぶんの歩いていく姿の一瞬一瞬に集中して進むこともできますし、周りに見えるものの姿や聞こえる音や、草花の香りに注意を集めてみることもできます。
クルマに乗ったらゼッタイに見えないもの、自転車でも見過ごしてしまうもの、速足で歩いていたら気がつかないもの、そうしたものが無数にあります。道端にしゃがみこんでもいいし、大空を見上げてみてもいいし、水の中をのぞき込んでみるのもいい。そうすれば、今の今まで気づかなかったものが世界にあふれていることに気づきます。