重なりあう次元 ―― 物質と意識
物質は五感で感じることができます。感覚を使って、ものを触ってみたり、香りをかいだり、光を見たり、音を聞いたり、味を楽しんだりすることができます。無味無臭の気体でも、風が吹けば肌で感じられます。
ところが意識は五感でつかまえることができません。自分の意識であれば、デカルトでなくても「我思う、ゆえに我あり」と澄ました顔をしていられます。でも他人の意識となると、そうは行きません。他人にも意識があるらしいとは推定できても、感覚でつかまえることはできませんね。一般には、意識は脳という物質の働きであるとして、それ以上は追求されていません。いったい意識とは何か分からないままです。
ところが整体や気功・瞑想を始めた人はだれでも、感覚だけでは世界をとらえきれないと感じ始めます。五感を超えたものがあることを遅かれ早かれ悟るからです。
五感でとらえきれないものとは何か。たとえば――この人はどこかからだが悪いのではないかと気になる。この人はこんなことを考えているような気がする。あの人から電話があるような気がしたら、その通りだった。森の中にいると気持ちがいい。自動車の多いところにいると気が休まらない。このように気という言葉で、五感でつかまらないものを表現していることに気づきます。
気という、物質かどうか定かでない存在がなんとなく感じられるとすれば、次のような仮説をたててみたらどうでしょうか。この世界は物質だけでできているのではなく、
〈 仮説1 〉 世界は物質と意識が二重になっている。
もちろん、この仮説は物質の範囲内では証明できないし、意識の範囲内で証明もできません。なにしろ、物質と意識の両面にわたっているわけですから。
こう仮説を立てて、私は日々、整体や瞑想に励んでいます。この仮説が正しいという確信はたかまる一方です。否定する材料がないといったほうがいい。そこでここでは、世界の物質面を物質界と呼び、世界の意識面を意識界と呼ぶことにします。物質界は三次元+時間の四次元とされていますが、意識界の次元がどうなのかは、今のところ分かりません。四次元+意識の五次元になっている等という人もいます。しかし正しいかどうか、今のところ何ともいえません。
念のため付け加えておきましょう。気と意識とはどのような関係になっているのでしょうか。これについて言われていることはばらばらで、気とは何であるかについて、まるで統一見解がありません。というよりむしろ、気と意識を区別して考えるという発想もあまりないように思えます。しかし、気がまったく意識ではとらえられないものであるとすると、いったい何で気の存在をとらえているのかが疑問になります。そこで私は、次のような仮説をたてておきたいと思っています。
〈 仮説2 〉 気とは、意識界を感覚でとらえたもの。
初めにも書いたように、意識そのものを感覚でとらえることはできません。しかし、気を感じるというとき、たとえば手のひらの「もやもや感」や「びりびり感」として感覚でとらえています。ですから意識界が物質界に顔をのぞかせているのが気だと思われます。そうして、意識界のセンサーとして働いている部分が手の平です。O - リングテストだとか、フーチだとかの方法がありますね。これらもやはり意識界を感覚でとらえたものである、といっていいでしょう。この仮説で具合が悪ければ、また別の仮説をたてるかもしれませんが、いまのところこれで十分でしょう。このような考え方すら、あまり見られないわけですから。
これに関連し、興味深い本をご紹介しておきましょう。有川貞清『始原東洋医学』(高城書房、2003)という本です。意識界を感覚で捉えたものを、物質の現象と区別して「潜象」と呼んで、その捉え方を詳しく解説してあります。このような問題に関心を持つ方には必読の本でしょう。