「愉気」=和式外気功

「気を出すというのは、どういうことですか」という質問をときどき受けます。もっともな疑問です。そして質問した人は、気を出すのに長い修行がいるのだろうか、自分にはそんなことはできないのだろうか、と考えているのでしょう。でも、そんなに難しいことだろうか。

愉気(ゆき)という癒し

野口晴哉(はるちか)さんの書物を読んだ人なら、「愉気」(ゆき)という言葉に親しんだことでしょう。これは野口整体のキーワードの一つといっていい重要な言葉です。簡単にいえば手かざしです。しかし野口学派の人たちは、こういう言い方に抵抗を覚えるでしょうね。あまり「手かざし」とは言いません、野口学派の人は。

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京都イノダ珈琲本店で

じゃあ、「手当て」にしましょうか。「愉気」のやり方は、どこか状態の変化(必ずしもそこが悪いところとは限りません)があるところに手の平をかざしているだけのことです。これには、手を触れる場合と触れない場合とがあるといっておきましょうか。しかし、こう言ってしまうと野口学派の人たちに批判されそうだ。ともかく野口学派には難しい人が多いから。

私の記憶が正しければ、野口先生の弟子の一人が、これを「手かざし」として宗教活動に利用してしまった、という事情もからんでいたと思います。といっても、かすかにそんなことを読んだ記憶があるという程度の知識で、どこに書いてあったのかは覚えていません。その宗教活動がどのような宗派によるものだったかも忘れてしまいました。

要するに、からだのどこか悪いところに手をかざして気を送る。野口さんはもともと、これを、気を輸る(おくる)という意味で「輸気」と呼んでいたそうですが、送るのではなく、天然自然にある気を導くだけだと気がついて「愉気」という字に改めたそうです。こんな事情は、野口学派の人の本を読めば、たぶんどこかに書いてあるでしょう。

エネルギーがめぐる

中国式の気功をしている人は、気をめぐらすとか、気を送ると表現するでしょうし(気功には二千の派があるそうですから、こんな表現をしない派もあるに違いない)、気は激しく長い修行のすえに操れるものだ、と考えられているふしがあります。でも、それはちょっと違うんじゃないだろうか。気を手のひらから出すと考えると、エネルギーが身体から出て行くわけで、他人に気を送る外気功をすると、たいへん疲れると書いてあったり、現に中国人の気功師がそのように語っているという記事があったりします。

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京都・六角堂
(六角烏丸東入る)

でも、愉気をしたことのある人からすると、こんなのは変な考え方だというでしょう。私自身も施術に愉気を使いますけれど、それで疲れたというようなことはない。もちろん、施術をすると身体を使いますから、そういう意味での疲れはあります。しかし、気を送ってエネルギーを出したから激しく疲労した、という感じをもったことはありません。むしろ愉気をした後は、こちらも何かゆったりした充足感を味わうことができます。されている人は、とても気持ちがいい、といって下さるし、私自身も気持ちがいい。共鳴状態が生まれるのでしょうね。こんなに得なことはありません。詳しいやり方については、野口晴哉『整体入門』(ちくま文庫)をお読みください。

気を導くとは

さて、肝心の「気を導く」とか「気を送る」とかいうのは、どういうことでしょうか。別の項目に「活元」という自律神経のエクササイズについて書いています。「活元」を大勢でする時、なかなか動かない人がいるので、私はそういう人の後ろから「愉気」をして回ります。その人の後頭部と腰のあたりに手の平をかざして、じっと「愉気」をしていますと、やがてその人の頭が少し揺れてくる。後ろからやっていますから、その人には私が何をしているか見えません。でも、事実として揺れてきます。

何が起きているのか、私にはうまく説明することができません。ただ、それでは何が何だか分かりませんから、野口先生が使われた言葉を使えば「気の感応」が起きているのでしょう。私のからだも相手のからだも、確かに物質であることには違いがありません。そして今ではよく知られているように、物質も波動であることが分かっている。それぞれの原子や分子が固有の波動を持つように、私のからだも、その人のからだもそれぞれ固有の波動を持っています。その波動のあいだに共鳴状態が生じるのでしょう。それを野口先生は「気の感応」と呼んだ。一応、いまはそのように説明しておきます。この説明がほんとうに正しいかどうかは、後世、証明されていくことでしょう。

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六角堂の香炉を支える鬼

まとめますと、次のようになりますか。愉気をする人とされる人のあいだに気の感応、つまり波動の協和(音でいえば協和音の状態)、あるいは共鳴が生じる。この状態が生じると気持ちのよい状態になる。逆に不協和(音なら不協和音)、あるいは干渉が生じた場合は、あるものや人に対して気持ちの悪い、不快な状態になることもある。ある人のことを想像しただけで気分が悪くなるという人がありますけれど、こんな場合は不協和状態が生じているのでしょう。病気というのは、ですから、からだの部分と部分のあいだに生じた不協和、あるいはからだの一部分とからだの外側にあるものとの不協和でしょうね。

愉気は、誰にできて彼にできないというようなものではありません。ところがこれを誤解している人が多いのではないだろうか。ある時、一人の女性が「先生は気を通すこともできるのですか」と質問された。「それは愉気という方法でやればだれでもできますよ」と答えたのですが、その女性は、たいへん不満だったようで、そのまま来なくなってしまいました。特別な人だけができる技(わざ)だと、その人は思っていたのでしょうし、またそう思いたかったのでしょうね。でも、だれでもできるような技はつまらないものでしょうか。