腎臓病と意識の深い関係
腎臓病を患っている人は、意識の中にひそかに不安を育てているのではないか、不安とは身体の内外がうまく統合できない状態ではないか、というのがこのページのテーマです。理屈を考えるのが苦手な人はパスしてもらってかまいません。
内外を統合する器官
腎臓というと、おしっこを作っているところで、からだの中の不要な物質を外へ送り出す器官だ、とだれもが考えています。これはこれで正しいでしょう。しかし、まったく違った見方もあります。
19世紀から20世紀にかけて活躍したドイツの哲学者で科学者でもあったルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の名はお聞きになったことがあるでしょう。独特な教育制度をもつ「シュタイナー学校」でよく知られています。この人の本は、どれをとっても他の人とはまるで違った発想で書かれていて驚かされることが多いのですが、とりわけ人体についての話となると、あまりの新しさに呆然となるほどです。彼の『オカルト生理学』(高橋巌・訳)という本が「ちくま学芸文庫」で出ていますから興味のある方はのぞいてみてください。この本は非常にまじめな本で、日本語でいう「オカルト」とは無縁の書物です。むしろ、霊的にとらえた生理学というほどの意味で「オカルト」という言葉が使われています。そこに次のように書かれていました。
「腎臓組織が、血液が空気と直接触れることによる外的作用と人体内部から生じる内的作用とを調和させ、そうすることによって、固有の性質を除去された養分が体内に供給されるように配慮するのです。」(『オカルト生理学』)
これでは理解するのが難しい。少し言い換えてみましょう。
身体は、外界との相互作用と、身体内部の相互作用という二通りの相互作用をしている。この二つがうまく進むためには、外界から取り入れる物質を内部と調和するように変化させることが必要だ。その働きをしているのが腎臓である。
何ですか。まだむずかしい? じゃあ、こんなのでどうですか。
からだの内側は、からだの外と互いに働きかけあっているし、からだの内側どうしも互いに働きかけあっている。からだの内と外が互いに作用している例として、肺で血液が空気と触れ合っている例をとってみよう。空気はからだにとって異物である。その異物をからだと調和するものに変えて取り込む必要がある。そのような働きをしているのが腎臓である。
内外の調和
外側を内側と調和させるというと、その反対の働きをするものとして、免疫の働きを思い出しますね。免疫の働きが正常に行われていれば、外側から内部と調和できないものが入ってくると、これを排除する。これはこれで、細菌をはじめ、おかしなものが入ってくるのを防ぐわけで、人体にとって絶対に必要な働きです。
ところが、ちかごろではこの働きが行き過ぎているようです。花粉症がそれで、周りにいくらでもある花粉にまで敏感に反応するようになってしまった。これを免疫の働きが異常になっているというようにとらえますけれど、実は逆に統合の働きが異常になっているんじゃないでしょうか。外側から入ってくるものをうまく取り入れることができなくなっている。シュタイナーの言い方を借りると、外界から入ってくる物質の「固有の性質を除去」出来なくなっているのではないでしょうか。
シュタイナーの言うとおりに腎臓が内外を統合する働きを果たしているとすれば、これは腎臓の働きの異常だと考えられます。もちろん、普通の生理学ではこんなことを考えないでしょうから、腎臓の血液検査をしても異常が出るとは限らない。本人も腎臓がわるいとは思っていないかもしれません。また逆に、腎臓の働きが悪いという検査結果が出たからといって、必ずしも統合の働きがわるくなっているかどうかは分からない。
シュタイナーの言い方を借りると、腎臓には「物質器官」としての働きと、「霊的器官」としての働きと、二通りの働きがあって、二通りの働きはそれぞれ別個に成り立っている、ということになります。
「霊的」というと何だか宗教のひびきをもってしまいますけれど、幽霊とか悪霊とかいう場合の「霊」ではありません。日本語に「スピリチュアル」にあたる言葉がないために、このように未熟な言葉をシュタイナーの訳者は使っています。霊的な働きはもちろん物質的な検査にはかからない。物質的な方法で霊的な働きをチェックすることはできません。物質器官としての腎臓の働きとは別に、霊的器官としての腎臓の働きがおかしくなって来ているということでしょう。
じっさい、背骨をみると、この人は腎臓がおかしいのではないかと思うような人に、血液検査などでひっかかったことはありませんか、と尋ねてみても、別にありません、という答えが返ってくることが多い。スピリチュアルな腎臓がどんどん変化しているのだけれど、だれもそのことに気づいていないのではないでしょうか。
驚は腎をやぶる
今度は東洋の話です。中国の古典に属するいくつかの医学書に「驚は腎をやぶる」(キョウはジンをやぶる)という言葉があります。ここで「驚」は現代の日本語では「びっくりする」という意味ですが、もともとは、馬が何かに驚いて前脚を高く上げ、後脚で立ち上がった状態を表しているそうです。つまり「おどろく」には違いないけれど、飛び上がって喜ぶような状態を意味していない。むしろ「恐れ」を表す言葉です。恐れの心が腎を傷めるということでしょう。古典にいう「腎」は、かならずしも腎臓をさしているのではないようですが、ここでは腎臓を中心とした各種の働きと解釈しておきます。
恐れが腎臓のはたらきを傷めるのなら、免疫異常が蔓延している原因は、「恐れ」の気持ちを持つ人が増えているからに違いない。あるいは「恐れ」よりも対象がはっきりしない「不安」かもしれません。「恐れ」や「不安」が腎臓を傷め、内外の統合ができにくくなっている。
人知れず腎機能が低下する
シュタイナーを中国古典と並べてみると、意外な結論が出てきました。現代人には人知れず腎機能を低下させている人が多いのではないか、という結論です。なぜこんなことを考えるようになったかといいますと、「パニック障害」のような症状を訴えて来られた方が、背骨を見ると腎機能の低下や発汗機能の低下を伺わせる状態だったからです。そこで、それらの機能に関係する個所を調整すると同時に、これは腎機能の低下によるもので、「パニック障害」のような神経系の病いではないだろう、と説明して、帰っていただいたら、翌週にはかなり改善していた、ということがあったからです。腎臓と意識とがどう関連しているのかを考えさせられたわけです。
もしも内外の統合が不十分な状態へと、人類がどんどん進んでいるのだとすると、これは見過ごせないことです。身体の外側が身体に統合できないような状態になってきているのですから、ますます生きにくくなっているといってもよいでしょう。からだの内と外がうまく統合できなくなってきたというと、なるほどとうなずく人が多いのではないでしょうか。