本当によくなりたいのか
《 やまいをもつ人は何としてもよくなりたいと思っているだろう 》とだれでも想像します。ところが不思議なことに、本人は必ずしもそう思っていない場合が多いらしい。
本当はよくなりたくない?
やまいをもつ人に《 よくなりたいのですか 》と尋ねると《 もちろんです 》と答えるでしょう。ところが心の底は必ずしもそうではないらしい。表面の意識では《よくなりたい》と思っていて、本人もそのように言うけれど、潜在意識といわれる深いレベルでは必ずしもそうでない場合があるようです。
だれでも《 苦しいことはいやだ 》と思っています。特別なばあいを除いて、わざわざ苦しいことを望む人はいないと思う。ところが、苦しいことをわざわざ選んでいる人がけっこういるのではないだろうか。なぜ苦しみを選ぶのかといえば、もっと苦しいことから逃れるためです。だれかにいじめられるのを避けるために病気になる、苦しい課題から逃れるために病気の状態を続ける ―― そのような人が多いのではないか、そう私は思います。
やまいに逃げこむ
こうした人たちは、やまいの中に逃げこんでいるわけです。もしもやまいでなければ、さらにたいへん苦しい状況を生きていかなければならない。たとえば、姑(しゅうとめ)にいじめられる、夫の浮気に苦しまなければならない、というような難しさがある。ところがやまいに逃げこんでいるかぎり実家で寝ていれば済む、あるいは夫が面倒を見てくれる、というような場合を考えてみれば、これは想像がつくでしょう。こんなとき本人は《よくなりたくないんでしょう》といわれても否定します。でも、潜在意識の中にこのような感じ方のある人は、けっこう多いような気がします。
もう一つは、自分のやまいをあきらめている人です。《 このやまいはどこの病院へいっても、鍼灸院へいっても、整体に通っても治らなかった、こんな難しいやまいが治るわけがない 》。そんな風に考えてしまっている人です。本人に尋ねると、《もちろんこれが良くなるのなら治りたいと思いますよ、でもねえ》などと答えます。
よくなる可能性を閉じる
この人たちの心のあり方を考えてみましょう。あきらめているというのは、もう本当に良くなりたいとは思っていないということです。健康になることを放棄してしまっている。もちろん、それまでに色々と良くなるための努力をしてきたけれど、良くならなかったという過去があるから、それもやむを得ないのかもしれません。こうなると、改善がたいへん難しくなります。
やまいの人は、《 まさかそんなことは思ってもいなかったけれど、ひょっとすると自分でやまいであることを選んでいるのではないか》と静かに思いめぐらして見る必要があります。《そんなばかなことはゼッタイにない 》と、強く言い切る人にかぎって問題が大きい可能性がある。自分では、《 わざわざ苦しい状況を選んでいるわけがない 》と思っているけれど、実は知らず知らずのうちにそういう状況を選んでいることがあるかもしれません。それに思い当たると、意外にやまいがよい方向にむかう出発点になるかもしれません。
誰かに依存する
例をあげてみましょう。若いお母さんのCさんは心療内科で「パニック障害」と診断されました。電車に乗っている時に発作を起こしたのです。それ以来、各駅停車ならいいのですが、急行や快速には乗れません。急行や快速だと、次の駅に着くまでに発作が起きたらどうしようと焦りだす。すると実際に発作が起きてしまいます。夫が一緒に乗っている時なら、たとえ起きそうになっても、夫にしがみついているうちに発作がおさまる。これはどういうことでしょうか。
夫がいてもいなくても、Cさんの身体には何も違いがない。ところが夫がいるかどうかで身体の反応が違う。これはCさんが夫の反応を求めているからと考えることができます。本人はそんなことに気づいていませんが、実は潜在意識に、夫に対する不満があるのかもしれない。夫に《もっとかまってほしい》と思っているのかもしれません。それをはっきり認めることを自分では拒んでいるから、自分自身には発作の原因が分からないままになっているのでしょう。これが原因のすべてではないにしても、こんな面があると考えてみると、自分の姿が分かってくるでしょう。
こんな話しが整体と何の関係があるのか ―― そう思われるかもしれませんが、やまいにこんな側面もあると気づけば、症状はもっと簡単に改善する可能性があります。自分でわざわざ悪い方向を選んでいて、そのことに気づかないでいる人には、よくなる可能性が閉じられています。医師や整体屋さんがいくら努力してもどうにもならない人には、このような側面があるのではないか、そう考えてみると、意外に見えてくることがあるのではないでしょうか。
あなたは本当によくなることを望んでいますか。よく思い巡らせてみてください。