ばね指の徴候

小さな徴候を見逃さず、しっかり見聞きしていることが大切なことを示すよい例がありました。ばね指です。

── うっかり見逃していたかもしれません。見立て違いを起すところでしたね。

すべて終わったあとで、そう私は言いました。初め、Nさんは手の指が痛いと言われて、いらっしゃいました。

── 右手の親指のここのところが、鉛筆を持つと痛いんです。

私は、ああなるほど、スケッチをするからだな、と思いました。Nさんからそういう絵を見せていただいたことがあります。普通は字を書くと痛いのですとか、ボールペンを使うと痛いんですとか、言われるところです。こういう小さな表現の違いも注意して聞いていないと、大切なポイントを聞き逃すことがあります。

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東近江市で

何かがおかしい

ですからお客様が来られて、初めにお話を聞く時は、真剣勝負です。なかなかすべて話して下さる方が少ない。こんな小さなことは関係ないだろうと、色々な徴候を省略して話しをされる方がほとんどですから、ちょっとしたことでも突っ込んで聞くようにしなければなりません。

── わかりました。やってみましょう。

Nさんの横に坐って、親指のIP関節の周辺をつかみます。IPなどというややこしい表現をしなければならないのは、親指の関節は他の指と比べて一つ関節が少ないからです。普通なら「第1関節」というところですけれど、他の指と違って親指には「第2関節」がありませんから、解剖用語のIP関節という言い方を使った方が正確です。それでは分かりにくければ、親指の指先に一番近い関節といってもいいでしょう。そこを動かすと痛いという。

で、まずこの関節をつかんで、関節の前後、左右、上下をクマなく押してみます。

── どこが痛いですか。
── あ、そこが痛いです。その、上のところ。
── これね、末節骨側のはしっこですね。

Nさんは整体をなさっている方ですから、「末節骨」という言い方を使っても大丈夫です。つまり一番先の爪の生えている骨が「末節骨」です。関節の末節骨側の甲側に痛みがあります。

これで痛む場所が分かりましたから、関節の先と手前とをつかんで、歪みのあるところを、わずかに歪んでいる方向にわざと、歪みを拡大する方向へ、つまりこうすれば痛みが拡大する方向へ、ごくわずかに動かして固定します。「ごくわずか」というのは、1ミリも動かしません。本当に気持ちだけです。そのまましばらくじっとしています。「しばらく」というのは、ほんの10秒ほどでしょうか。これで歪みが取れて、痛みがなくなるはずです。もしも、これで取れなければ、つまり歪みが修正できなければ、もう一度同じ操法を繰り返せばよろしい。

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長屋門(東近江市五箇荘)

歪んでいる方へ動かす

そんな妙な、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、最近はこういう方法を採用しています。この方が操法を受ける人の負担が小さいと思うからです。なぜ、わざわざ歪んでいる方にやるのか。修正する方向にやるのではないのか、と疑問を持たれる方があって当然ですが、

── え! そっちへ動かすんですか。

── そうです。これまでと違うでしょう。操体法と同じですよ。あれは、痛くない方、楽な方へ動かすでしょう。楽な方というのは、実は歪んでいる方ですから、操体法と同じことをしているんです。これまで「反動」というのを使っていたでしょう。今やってるのは「反動」と同じことなんですけど、力のかけ方が違います。力をほとんど使わないだけです。

などと言いながら、やってみますけれど、

── やっぱり痛いです。こうやると痛いですね。
──うーん、だめか。もう一度やってみましょう。

同じことを繰り返してみますけれど、

── 申し訳ないけれど、痛いですね。
── そうですか。別に申し訳なくはありませんよ。私が申し訳ない。

こうなると、考え方を改めなければなりません。何か別の要因があるはず。

── 「ヘバーデン結節」ではありませんか。第1関節が見たことろ、みんな変なぐあいでしょう。
── えーっ? コーヒーの飲み過ぎ?
── そうそう。コーヒーだけではないけれど、カフェインの摂り過ぎかもしれません。緑茶もウーロン茶も、紅茶も。
── じゃあ、コーヒーを止めないといけない。ああ、そんな!

ヘバーデン結節については、過去に何度か書きました。要するに、手指の第1関節が硬くなって、痛みが出る症状です。軽い場合は痛みが出ないこともあるようですが、いずれにしても関節のところが盛り上がったようになって、ご本人はとても気分が悪い症状だろうと思います。

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東近江市金堂

微妙な徴候

さきほどNさんが親指を動かすのを見ていて、ふと私は気づいたことがありました。IP関節の動きが何だかおかしい。どうもカクッとした円滑でない動きが混じっているような気がしました。何だか関節にやや引っ掛かりがあるのではないだろうか。

── あ、ひょっとするとバネ指かもしれませんね。何か、カクッとなる動きがありますよ。大菱形骨が歪んでるんじゃないですか。
── いいえ、そこも調べました。痛くなかったですよ。

まあ、しかし、見逃すこともありますから、親指の付け根にある大菱形骨の甲側をあちこち押してみると、

── あ、そこ、痛い。
── やっぱりね。うっかり見逃すところでした。

大菱形骨が甲側へ歪んでいますから、これを先程の関節と同じようにして修正します。次に、前腕の橈骨が下がっていますから、これを微圧法でゆっくり変化させます。

── さあ、これでどうですか。
── あ、痛くない。
── やれやれ。うっかり見逃していたかもしれません。見立て違いを起すところでしたね。バネ指のなりかけですよ。
── よかった。これでコーヒーが飲めます。

ほんのちょっとした徴候を見逃していたら、この痛みは取れなかったでしょう。Nさんが指を曲げ伸ばしする様子を見た時に、微かにカクッとした動きがあることを覚えていたから、バネ指の初期であることを見抜けましたが、そうでなければダメなところでした。

このように小さな徴候を見逃さないことは、重要ですが、いつもうまく行くとは限りません。

近ごろ読んだ本に『第1感』というのがあります。かなり面白い内容で、ギリシャ彫刻のニセモノを本職の美術館が見抜けなかったという話から始まります。現代の機器を使った調査ではあやしいところがなかったので、美術館の職員たちがすっかり騙されて購入してしまった。ところが専門の古美術商などが見ると、何だかおかしい。けっきょくこれはニセだったことが分かるのですが、この「何だかおかしい」という感覚がどこから来るのか。それをこの本は詳しく分析しています。

いずれにしても、何だかおかしい、という感覚がある時は、観察者にとって十分に「何だか」というところが分析しきれていません。ですから、「何だか」というところにこだわることが必要かもしれない。普通に分析してみて特におかしくなくても、「何だか変だ」という感覚がある時は、それを大切にしてみる。これが見逃すことを防ぐ極意であるかもしれません。

もっともバネ指の「カクッ」とするところを実際に見ていないと、「何だか変だ」という感覚を覚えることもないわけですから、やはり色々な症状を経験することが必要だ、ともいえます。観察が大切ですね。そうして、それをよく記憶していることも大切です。こういうものは人に伝えることができません。「わざ」と言われるもので、「技術」ではありません。「わざ」は伝えるのが難しい。自分でつかみとらなければなりません。

( 2010. 10 初出 )