木を見て森も見る
どうなっているのかが分からずに病名だけつけている人がいるんではないだろうか。例えば次の例はどうでしょう。
上腕骨外上顆炎?
よく「木を見て森を見ず」ということがありますね。一本一本の木は見ているつもりになっているけれど、森の姿が少しも目に入っていない、細かいところをよく観察しているつもりでも、全体像を少しもつかんでいない。そんな事情を表現した言葉です。これが当てはまるかどうか、次のような例が先日ありました。
80歳代の男性Aさんです。肘(ひじ)が痛いといって来られました。しかも痛みがもう半年ちかくも続いているとおっしゃいます。初めは知り合いの外科で、次に整形外科で見てもらってX線やら何やらで調べたあげく、骨に異常はない、これはテニス肘だ、と診断されてビタミン剤を処方されたけれど、少しもよくならない、という。そして「テニス肘」を解説したリーフレットをもらったからと見せていただきました。「テニス肘」の題名の横にカッコ書きで「上腕骨外上顆炎」と書いてあります。
難しい専門用語を見せられても、一般人には何のことやら見当がつきかねます。じゃあ「テニス肘」という言葉なら何か分かるか。そう問いかけてみればどうでしょう。「テニス肘」と言われると何か分かったような気がする。テニスか何かが原因で、肘が悪くなっているんだな、というのは分かる。ではどこがどうなっているのか、と尋ねられるとさっぱり分からん、というのが実情でしょう。80歳を超えたご老体がテニスをするかどうか。それも疑問です。テニスに似た動作もしていないでしょう。
なぜ「上腕骨外上顆炎」などという、一目見ただけでは読むのも難しい用語を使う必要があるのか、私にはとんと見当がつきかねます。「肘が痛い」とか「肘痛」とか、そうカンタンに言えないものでしょうか。
むかし読んだ国語学者の本に、軍隊でブッカンジョーという言葉が使われていたが、意味が分かるか、という問いかけがありました。もちろん昔のことですから理解できる人は、もうほとんどいないに違いない。これは「物干場」だそうです。じゃあ、やはり軍隊でヘンジョーカと言っていた。これはどうですか。これは「編上靴」だそうですよ。
まあ、これは仲間内の隠語のようなものだからいいけれど、一般人を相手に「外上顆炎」はないだろう。これはどんな症状を表しているのでしょうか。肘の両側、内と外にでっぱりがありますね。このうち、外側にあるでっぱりが「外上顆」または「外側上顆」(がいそくじょうか)と呼ばれます。それが炎症を起こしているというのですが、さてどうか。
肘の歪み方は決まっている
Aさんの腕を持って「外側上顆」を触ってみる。「これは痛いですか」とお聞きすると「いえ痛くありません」という返事です。「それじゃあ、ここはどうですか」と、前腕の親指側にある橈骨の上の端を押さえてみると「あ、そこが痛いです」という返事。
やれやれ ── 。私としては、そう思わざるを得ません。肘が痛い場合は、たいていここがまず痛むからです。念のため、肘の他の部分について、痛みが出そうな場所を一つ一つ押さえてみましたけれど、一箇所わずかに違和感がある程度で、どこも他には痛みがありません。説明を付け加えておきます。前腕には二本の骨があって、親指の側が「橈骨」、小指側が「尺骨」です。この「橈骨」の上の端、掌の側が痛かったわけです。
「分かりました。やってみましょう」と、橈骨の上の端を肩の方向へ向けてじっと押さえること約90秒。ふたたび押さえてみて、痛みがあるかどうかお聞きすると「いえ痛くありません」と言われる。そこでもう一箇所、違和感があったのは、肘関節の内側なので、これをわずかばかり調整しました。後は手首です。手首の骨のそろい具合を見て、これも薬指の先をちょっと撫でると、出来上がり。「さ、これで大丈夫だと思いますが」。
Aさんは自分で手首と腕を動かしてみて、あちこちつついて見て「どこも痛くありません。不思議ですねえ。魔法みたいだ」。いえいえ。これは魔法なんかじゃありません。ここは、いつもこんな風に歪みやすいところです。
肘の歪み方は、ほぼ一定していると言っていいでしょう。親指側にある橈骨が下がって、内側へねじれる。その結果、小指側にある尺骨と橈骨の間隔が開いて、前腕全体が硬くなる。すると、頸(くび)をひっぱるために、頸の動きが悪くなったり、ひどい時には寝違えになったりする。ですから頸がおかしいと思ったら、まず肘を何とかすることです。
森を見るのは難しい
さて、この例で見られる教訓は何でしょう。難しい用語を使って素人をケムに巻いてみたが、何のことはないボロを出していた、そう言われても仕方がない。この症状を「上腕骨外上顆炎」と診断すれば誤診になります。外上顆には異常がないわけですから。異常がないことは、実際に外上顆にちょっと手を触れて、痛みますかと聞いてみるだけでいい。それもしていないのですから、これでは「木を見て森を見ず」どころか、「木を見ず、森も見ず」ではなかろうか。
木を見て、森を見よう。肘の一点がどのように歪んでいるかを見るだけでなく、なぜそんな歪みが起きるのか、またその歪みによって、どんな問題が起きてくるのか、そこまで目を行き届かせておきたいものです。さて、私自身「木を見て、森を見る」ことが出来ているかと自問してみると、うーん、なかなか難しい。
例えば奈良市の東にある春日の森に行くとしましょう。滝坂の道を歩けば、一本一本の木は見える。でもそれだけで春日の森が見えたとはいえない。じゃあ航空写真で見ますか。Googoleの地図で見れば春日の森を見たことになりますか。だめですね。それではただ、春日の森を俯瞰したというだけで、森全体を見たことにはなりません。やはり昔の木こりのように、春日の森に分け行って森の隅々まで熟知しているのでなければ、森全体を見たことにはなりません。春日の森は立ち入り禁止ですから、もちろん入れませんし、近くの里山なら入れるかといえば、近頃の里山は自然に任せたままで人の手が入っていませんから、歩けなくなっている道も多い。もうだれも森全体を知っている人がいない。
医師もそうですね。「外側上顆炎」だと診断しても、本当のところは患者を前にパソコンの画面を睨んでいるだけですから。実際に外側上顆を触ってみる人もいないのかも知れません。もうだれも森を見なくなって久しいのではないか。
(2010. 11 初出)