何に向かって
整体は何に向かってする技法なのだろうか。「健康」に向かってでしょうか。それとも「理想の身体」に向かってでしょうか。「理想的なボディ」などと言えば何かのCMに出て来そうな台詞ですね。
それぞれの身体に変化の様式がある
初めて来られた方の背中を見せていただくとします。正坐して、背中を少し前傾してもらうと、背骨の歪みが強調されて現れます。わあーこれはひどいなあ。そんなことを思わず口走ってしまうかもしれません。言われたほうは心配になってしまう。でも少し操法すれば背骨は真直ぐになりますから、心配しなくても大丈夫です。
とすると、私は背骨を真直ぐにすることに向かって操法しているのでしょうか。いいえ。そもそも結果は当人の身体が作り出すものです。決して操者の思いが実現するわけではありません。整体を受ける人の身体にはその人独自のメカというか、身体の 《 変化の様式 》 があって、私が何か操法をすると、それに従って動き始めます。しかしどう動いて行くか私には分かりません。その人の様式に従って動いて行くのであり、私が動かすのではないからです。
その人の変化の様式は、他の人の様式とは少し違う。ずっとテニスをやって来た人と、ずっと部屋に篭って本ばかり読んでいた人とでは当然ながら違うでしょう。また事故でどこかに打撲を受けた人は 《 特異な様式 》 を持っています。そういう人に整体をするのが難しいのは、特異な様式を持っていて、それをつかむのが難しいからです。しかし、どの人にも 《 共通の様式 》 があるのは事実です。
どっしり構えて
ここのところが実は整体の面白さではないか。整体をする人は、共通の様式を前提にして、何とかしようと頑張ります。でも実は頑張ってみても、だめです。決して操者の思い通りには動きません。もしも力を掛けて思い通りに動かそうとすると、どこか別のところが変な具合になります。事故を起こしたりします。操法の後は、その人の《特異な様式》に従って変化するのを待っている他ありません。
ここを誤解している人がいるのではないか。操法は自分の考えに従って相手の身体を変化させることだと思っている人がいるのではないか。実は、私もそう思って操法していました。でもそうすると、うまく行かないことが多い。これはなぜだろうと思っているうちに、こちらの思いで変化するのではなく、相手の身体は、その人の《様式》に従って変化すると分かって来ました。自分の思いを相手に押し付けて相手の身体をこちらの思うように変えようとしても決してうまく行かない。整体は機械修理とは、おもむきが違います。
私自身を振り返ってみても、むやみに相手の身体のあちこちを触りまくっている時は自分の思いが揺れている時です。そんな時はどうもうまく行かない。どっしりと構えている時はちょっと触って放っておくだけでうまく行きます。ここのところが成功・不成功をわけるのじゃないか。そう感じることが何度も続いて、ある時、はっと気づいたわけです。
押し付けてはならない
「理想的なボディ」に向かって整体をしてみても無駄です。整体とは自分のイメージを相手に押し付けることではないと気づけば、結果がよくなります。整体を受けてみて、あちこち触りまくられるようでは期待した結果が出ないと思って間違いではないでしょう。もしも私のところへ整体を受けに来られて私が触りまくるとすれば、私に迷いや焦りがある時です。
どっしりと構えて、相手のからだが自然に変化してくれると信じて操法すれば、実際そのようになります。人のからだにはうまく働く方向に変化したいという自然の欲求が備わっていると考えて間違いはないでしょう。
でも、ここのところに微妙な点があります。もう少し詳しくいうと、相手の身体は、操者の思いと受け手の様式が共鳴したときに変化するのではないか。このことについては別に書きたいとおもいます。難しい課題なので、いつになることか分かりませんけれども。
( 2012. 11 初出 )