直しすぎの誘惑

操法をしていると、直しすぎる誘惑がありますが、この誘惑に負けてはなりません。

nanten
南天

看板を直しすぎた

朝0枠の予約がある時は午前7時半に朱鯨亭に着きます。早すぎないか、と心配してくださる向きもあるのですが、早起きなので苦痛はありません。朝日に輝く「ならまち」を歩くのは快適です。さて玄関に通じる路地を辿ろうとすると、看板の支柱が新しくなっているではないか! 雨ざらしの看板は本体も腐りかけているし、支柱もガタガタになっていたのに。

でも修理を誰にも頼んだことはない。不思議だ。誰かがやってくれなければありえない。そこで。心当たりのYさんにメールで尋ねてみました。「あれ、ひょっとしてYさん?」と。数日後、返って来た返信をみると、勝手に直しておいたと書いてあります。まことにかたじけないと返したのですが、そこに書かれていることが気になります。

── おかげで色々気づかされました。

何に気付かされたのかを再び尋ねてみます。返って来たのが、この答え。

── 木を自分の思う奇麗な形にしようとしすぎているなっ、と。木は全部真っ直ぐではないので、そのままを活かしながら形を整えることを考えた方がいいんやろなっ、と。そういや、自分の整体も枠や型にとらわれすぎなんじゃないかな?? 奇麗に真っ直ぐにシンメトリーに!というのにとらわれすぎなんじゃないかな??

確かに真理です。操法をする人の陥りやすい誘惑を見事に突いています。人の身体を見ると、ああ肩の高さが違う、ちょっと右に傾いている。脚の長さが違う、などとアラ探しをするのが操法家の習性です。いわずもがなの余計なことも言ってしまったりします。

cacao
カカオの実

理想を押し付けるな

人間の身体は、およそのところ左右対称ですけれど、細かくみると、決して対称ではありません。左利き・右利きという違いがある限り、左右対称などありえません。でも、ついつい左右が違うと直したくなってしまう。例えば左右の違いがあっても見ただけで分からないのは、足首の左右差です。距骨を調べてみれば、左右が違うことに気づきますけれど、ざっと見ただけでは分かりません。こういう細かい違いが至るところにあって、決して左右対称ではない、というのが実情です。

だからこそ注意しなければなりません。【 操法をする人が自分の頭の中にある理想像を相手に押し付けてはならない 】ということです。テニスを毎日している人には特有の歪みがあります。それを無理に直してしまうと、テニスがやりにくくなってしまう。あまりにひどい歪みがあれば別としても、テニス特有の歪みを尊重した上で全体を整えることをしないと、ご本人の目指すところと違ってしまい、本人のための操法になりません。

aristolochia
アリストロキア

遊びを残しておく

もっと直截に言えば【 直しすぎてはならない 】。少し直し足りないくらいがちょうどいい、と言っても同じことでしょう。【 あそびを残しておくこと 】といってもいい。

ところがご本人はそんなことを考えませんから、ともかく少しでも違和感があれば、それを直してくれるよう要求します。実はこれが困る。まだ時間が残っているからと、どこか痛いところを探しだしてでも続けるようにいう人がある。こちらは時間が早く終わったら、少し「勉強」しておこうかと思っているのですが、こんな要求が出ると無視するわけにも行かず、余計なことをやってしまいがちになります。

Yさんが気づいたこととの関連でいえば、木目の性質など無視して、細かい歪みを直してしまう。すると別のひずみが生じるというわけです。操法をしてくれるところに行かれるみなさん、こういう事情も少し飲み込んでおいていただければ大変ありがたいと思っています。

( 2014. 02 初出、2014. 07 改訂 )