朱鯨とは何か
「朱鯨」って何ですか、というお尋ねを時々いただきます。もっともなご質問で、諸橋徹次の『大漢和辞典』を引いても、この言葉は出て来ません。これは父の雅号です。
「朱鯨亭」というサイン
「朱鯨亭」の壁に牛蒡(ごぼう)の絵を飾ってありまして、その絵に書かれたサインが「朱鯨亭」。
この絵には、父・卓二(1910-1981)が昭和21年(1946年)の早春に書いたという書き込みが見られます。私は1947年生まれですから、1946年はその一年前、第二次世界大戦が終わった翌年です。この頃は物資が極端に不足していたはずで、色紙(しきし)や絵具(えのぐ)が簡単に調達できたとは思えません。ところが父はどこでどう手に入れたのか、その貴重な色紙に牛蒡の絵を描いたのでした。
父の生前、この絵について私は何も聞いたことがありませんでした。初めてこの絵を見たのは、父の遺品を整理していた時で、その時は新聞紙に包んだまま、どこかに放り込んでおいたものです。
「朱鯨亭」とは何か?
そんな事情もあって、この号がどういう由来を持っているのか、いまも分かりません。ただ父は若いころ大変な中国ファンだったらしく、中国服を着ていたこともあるそうです。そう思って調べてみると、佚名という中国人の著した書物『江南聞見録』に、「朱鯨」の字が出てくることがわかりました。なるほどそういえば、父の遺品の中に芥川龍之介の『湖南の扇』の原本がありましたし、中国熱が高じて戦前の台湾にしばらく住んでいたこともありました。そのころ台北で撮った写真には、芥川龍之介の若い頃の写真によく似た雰囲気があったことを思い出します。
また、私がまだ子どものころ、父の蔵書の中に桑原隲藏(くわばら・じつぞう)『蒲壽庚の事蹟』(ほじゅこうのじせき)という歴史専門書がありました。子ども心になんだか難しい本があるなあ、とときどき分からないながらに引っ張り出して眺めていたことがありました。この蒲壽庚はアラビア人の富豪だったとかで、やはり南中国で活躍した人物のようです。
ともかく若いころの父は中国・江南の地にあこがれていたらしい。実際にその地を踏むことはなかったようですが、海南島に渡りたかったと、得意げに話していたことがあるのを覚えています。
先日、奈良市の三条通の中ほどにある「臥龍坊(ウォロンファン)」という台湾飲茶の店に行ったとき、台湾の高雄(カオシュン)出身という主人に朱鯨亭のパンフレットを手渡しました。もちろん、この店の料理が素晴らしかったからです。
―― 朱鯨って何ですか、と主人。
―― よく分かりません、父親が使っていた雅号らしいんです、父は台湾にしばらくいたから、台湾と関係があるかもしれません、と私。
―― ああそうですか。朱は赤ですね。中国ではおめでたい色。それから鯨。これは大変おおきいでしょ。だから大きいこと、ですね。おめでたくてでっかい、そういう名前だから、いいんじゃないですか。
―― なるほど。そうですか。
というようなやりとりをしました。朱鯨というなまえについて、こんなに明快な説明をしてもらったのは始めて。なるほど、やっぱり中国とかかわりがあったのか、と納得しました(余談ながら、この店は三条通りの拡幅でなくなってしまいました。残念)。
「朱鯨」は「手藝」に通じる
ところでシュゲイという発音は、「手藝」 ―― 「藝」(げい)と「芸」(うん)とはもともとは別の字で、ゲイの発音は「藝」の字で表す ―― つまり手の藝に通じます。整体は手を使った藝だといって間違いではありません。私の施術がうまくいって、来られた人のからだが急激に変化したときは、ほんとうにうれしくなってしまう。舞台で俳優や藝人の藝がツボにはまったときに感じるよろこびに通じるかもしれません。
父は早くに亡くなっていますから、私がいま整体を仕事にしていることは知りません。それでも父の選んだ号が手藝を表しているのは偶然だとは思えません。父がくれた私の名は珠樹です。ここにも「朱」の字があるわけで、父はよほどこの字が気に入っていたものと見えます。私自身もどういうわけかオレンジ色が好きですね。
こんなさまざまの事情があって、これは私の知らぬ間に父が作っておいてくれた名前にちがいないと、最近になって思い至りました。
いうまでもなく、「朱鯨」つまり朱色の鯨などいるわけがありません。ですからこれは中国とは何の関係もなく、ただ不可能なものを表す名前として父がたわむれに作ったものかもしれません。それならそれで、路地の奥にある世間離れした空間を表す名前としてぴったりだという人もいるでしょうね。
( 2006. 12 初出 )